子どもはアホ。でも、賢い。
子どもは、結構アホだと思う。もちろん、見下した意味合いじゃなくて「アホやなぁ〜」って感じの愛情込めたミュアンスね。今まで何人もの子どもを見てきて、接してきてそれは思う。
たぶん、あなたもそんなことを思うことは何度もあったはず。
例えばこんな感じのことは、誰でも実際に自分の担当している子どもに見たことはあると思う。
こういうのは、むしろ逆に才能を感じるレベル。見てるこっちも面白くなる瞬間。
模範解答にあるような正解よりも、ハッ!とするような不正解の方が可能性を感じる。この程度の話であれば、可愛いな〜アホやなぁ〜で済むと思うし、それで良いと思う。
でも、実際は子どもは賢い。
頭の回転は速いし、機転もきくし、気を遣う。
「子どもだから〜。」
「子どもには、難しい」
という発想で子どもを見ていると、信用をなくすと思う。
子どもだって気を遣う
僕の家は裕福な方じゃなかったから、その家系的な癖が染み付いたらしく、未だに僕はケチで付き合いが悪い。
僕が住んでいたのは山口市内(実家は大阪) 記憶が覚束無い程の頃、時々、母や父は僕ら兄弟は近くにある維新公園という大きな公園に連れて行ってくれた。 TVでは、九州にある大型遊園地やレジャー施設のCMが引っ切り無しに流れていた頃。
ジェットコースターや観覧車やマスコットキャラクターが、楽しそうにTVから語りかける。 本当のことを言えば、そっちに行きたかった。 けれど、うちが裕福じゃないことや、TVで流れている向こう側はお金がかかる事を、子どもながらに察していたから、僕ら兄弟は、
「あんなん怖いから絶対に嫌やわぁ~」
「俺はあんなん興味ないし!幼稚やでぇ」
なんて嘘をついて、それよりも、維新公園の芝生でするサッカーやバトミントンを心待ちに、楽しみにしているに興味津々の子どもを演じていた。 園内のアイスクリーム販売にも
「お腹壊すし、いらんわ」
なんて、必死に涎(ヨダレ)を飲み込んで我慢して、興味ない子を僕らは演じていた。
それでも、今思えば、それが演技だってきっとバレていたんだろうなって思う。 だとすれば、あの時の母と父の心境は一体どれほどのモノだったのか。こんな風に、親に気を使う気持ちを今の子どもは、わかるだろうか。 大きな公園を通る時は決まって、そんな事を思い出す。
そんな話をすると、友人も同じだったと話してくれた。
「俺もそうやったで」
って。
たまにあった外食で「好きなものを食べ」って言われても、高いのは選べなかった。安めのものを選んでいたけれど、気を遣っているのを悟られないように必死で考え出した答えが
安いものが好きな子になればいい
だったと。
安めのものが「本当に好きな子」であれば、嘘でもなんでもなく、好きなものを食べていることになるから、そうしようと考えていたと。そう話してくれた。
見透かされるんだよ、子どもに。
小学校の低学年でそうだった。
子どもだって大人に気を遣って生きている。それに気づいていない鈍感な教師や大人は本当に多いと思う。
それは、もしかしたら育ってきた環境の中で、自分が気を遣うことがなかったからかもしれないけれど。。。
子どもだって気を遣う。
だからこそ、大人の勝手な
「子どもだから、これくらいでいいだろう」
「子どもには、これは難しいだろう」
「子どもなんだから、これくらいで充分」
なんて考えは浅はかで見透かされていると思った方がいい。こちらが思っている以上に子どもは考えて周りの目を気にして、気遣って生きている。こちら(教師・大人)のちょっとした誤魔化しは見透かされ、次第に信用も失っていく。
真っ正面から向き合う。
「子ども」として見つめ、向き合うことも大切だけど、「一人の人」として大人同様に接して向き合うこともとても大切だと思う。真っ正面から人と人として向き合って接する中で、子どもとの信頼関係も築けていくと思う。
自分の背中を見せながら、対子どもなのか、対一人の人なのかを見極めながら向き合うことで、信頼関係を築ける教師と児童との関係が作れていくのではないのかなって思ったりする。
友人と話をする中で、そんなことを改めて強く思った。
子ども扱いされるのを、実は子どもって嫌がるもの。
「この話は難しいから、話さなくていいか」
ではなく
難しいなら、わかりやすいように咀嚼して伝えればいい。もちろん、伝えなくていいこと、知らなくていいことは山のようにある。見せなくていいものもたくさんある。そこに良識ある大人・教師としてのフィルターはとても大切。
でも、大切なことはこっち(大人・教師)の勝手な先入観や解釈でフィルターをかけた見方で子どもたちを見つめると、見透かされてるんだぞって話。
って話をしたかったんだよね。